昭和49年05月24日 朝の御理解



 御神訓 一、「祈りてみかげのあるもなきも和賀心なり。」

 和賀心と云うのは、我の心とか自分の心と。どう云う様な心の状態になったら、おかげが受けられるかと。その自分の心の状態と云う物を、究めると、ながめると。そこが大事です。和賀心なりと。和賀心なりと、お道の信心のおかげと云うのは、ここに極まった。様々な修行をさせて頂くに致しましても、修行によって、自分の心がおかげの受けられる状態になると云う事を、修行するからおかげを頂くのじゃない。その修行によって、そのおかげの頂けれる、心の状態と云う物が、おかげを頂くのだと。
 金光教の信心は此の所を説いてある訳です。御取次を頂いておかげを受けると云う事も、それは御取次の徳によっておかげを受けますけれども「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と御理解三節にあります様に、そう言う「願う氏子におかげを授け」と云うおかげは、まあ心もいらなければ感じなくてもおかげを受ける。だからそう云うおかげに終始したのであっては、もう金光様の御信心とは言えない様な感じがする。
 御取次を頂いておかげを頂くと。もちろん御取次を頂いて心の持ち方、御取次を頂いて心をみがく、御取次を頂いて日々の改まりを第一とすると云うような、次の「理解申して聞かせ」とおっしゃるところは、全部心を清めて行け、改まって行けと云う、言わば御教えばかりなのです。ですからどうしてもここに、「祈りてみかげのあるも無きも、和賀心なり」とこう。昨夜の御理解に頂きます様に、「一寸の虫にも五分の魂」と。言わば根性と云う事である。
 その魂それは心と云う事になりましょうが、お互いがですね、その魂いわゆる心をです。まずは確認しなければならない。自分の心と云う物をはっきり、心があると云う事を認めなればならない。魂があると云う事をはっきり確認すると云う事が第一なんです。所がね、お互いが確認出来ていないのです。言うならばある様な無い様な心が。確認が出来とらんのです。心の確認と云う、魂の確認が本当に出来たらです。今日の御理解じゃないけれども、おかげは和賀心自分の心にあるんだと。
 はっきり仰っておられるんですから、その心に取り組まねばおられない。成程汚い心だなと、是ではおかげが受けられんなと云う事がはっきり判るんです、心の確認が出来ますと。所が自分の心と云う物を確認してないです、はっきり。わが心と云う物をね。ここでは和らぎ賀ぶ心じゃないですよ。和賀心と云うのは自分自身の心なんです。その自分自身の心にありと言う、おかげと云う物は。
 只それはだから心があろうが無かろうが、いやそれを信じようが信じまいが確認しようが確認するまいが、ただ御取次を頂いて「願う氏子におかげを授け」と仰る。言うなら信心の初歩的な所でおかげを受けるから、御取次を頂いて御取次をして頂いておかげを受けると云う様な信心が付いておっても、本当の霊験と云うか本当のおかげと云う物にはなって行かない。本当のおかげは和賀心にあるのだと。
 自分自身の心にあるのだと。ただその心と云う物を確認する。間違いなく自分の心があると云う事を認める。認める所からその心を見極めると、見詰ると云う事になって来る。そして成程こんな小さい心是じゃおかげが小さいはずだと。こんな汚い心是じゃおかげが受けられんはずだと言う事が判る。先ずは心を言わば確認すると云う事。是はもう本当に私は、自分の心と云う物をはっきり認めておる。と言う風に自分でも思い込んでるんです。けれども思い込んでおるけれども、それを認めていない証拠にです。
心を疎かにしているです。「おかげは和賀心にあり」と教えられるのだけれども、それを言わば信じていない。心はある様な無い様なと云う様な程度の所である。また事実ある様な無い様なと言う表現が、一番当たっておると思うんです。けれどもその心があると云う事が判らなければ、いや確認すると云う事にならなければです。自分のその心に取り組むと云う事をしませんです。只「此方の道は真心一つで助かる」と。その真心と云う物がです。まず自分の心と云う物をはっきり把握する確認する。
 あると確認する所から、こう云う心は真心ではないなと。助かる心でないな。人が助かる心でも勿論ないな。「天の心は神心、大地の心が氏子の心」と。天の心は言うなら、与えて与えて止まない心だ。その与えて与えて止まないと言われるそのおかげを受け止めるのは、言わば大地の様な心。その大地の心がそのまま氏子の心と云う事になった時にです。「神人共に一体」と云う事になるのです。だから大地の様な心にならせて頂かなければと、言うても思うてもです。
 その心その物を本当に認めていないから、本気で大地の心になろうと精進しないのだ。まあだ、心が本当にあるやら無いやら分からん。心を認めなければ自分の汚い自分の心も何時まで経っても判らない。疎かにする浅ましい小さい心「祈りてみかげのあるも無きも和賀心」と言う、その和賀心をまず認めなければいけない。そして成程おかげが受けられん言わばはずだと云う事も解らん、自分の心の確認が出来ないと。
 心と云う物を一つ只漠然と心がある事はあると言うのではなくて、もうはっきりと心を自分の心を見究めた時にです。そこから本当の信心は出来ると思うです。成程こう云う心ではおかげが受けられない。小さい心と云う時にどう言う様な信心をさして頂いたら、心が大きくなるか。どう云う信心をさせて頂いたら、この心が汚い心でなくて清まって行くか。その清まって行く云う事と、又は大きな心にして行こうと言う心を、まあだ認めていないから、そう云う働きが本当の物になって来ないのです。
 「おかげのあるもなきも和賀心」と、その和賀心を言わば認める。心の確認である。魂の確認である。そこから私は、成程おかげは心次第だなあと云う事の体験が生まれて来ると思うです。おかげは心次第だと。大きな豊かな心になりゃ、おかげが豊かに大きゅうなって来る。と、例えば是は愈々大きくなる事の為の精進をしなければおられないと云う事に成って来る。そんなら心を大きくして行く精進とはどう云う事かと、本気で御教えを拝聴すると云う事になる。汚い心ではおかげは受けられん事が判る。
 だからそれを限りなく美しゅうならせて頂こうと、そう美しゅうする精進すらもしない、心が確認が出来てないと。私はいわゆる、「天の心は神の心、大地の心は氏子の心」と云う、そう云う例えば御教えを頂く、その前にです。わが心を一つ本気で確認する。把握する。そして成程自分の心が大地の心ではない事をまず認めなければならない。そして大地の心にならせて頂くと云う事に精進する。大地の心にならせて頂く事の為には、どう云う信心をしたら良いか。
 どう云う修行をしたら良いかと自分で求め求めしなければおられなくなって来る。心が小さい、ならそれを大きくして行かなければ、大きなおかげにならない事が解る。まずその自分の小さい心を、まず確認しなければならない。「祈りてみかげのあるもなきも和賀心なり」「和賀心なり」とここに極まったと言う風に教えておられます「和賀心なり」と仰っておられます。それには愈々本気で、和賀心を確認しなければいけません。昨日の、昨夜のお話の中にも申しました様に。
 自分の心がなにものかに捉われておると云う事。捉われておるから本当の事が本当の事と判らん。間違っておる事も解らない。その捉われておると云う事でもです。自分の心の確認が出来なければ、捉われておると云う事すらも解らん。本当にです和賀心と云う物を一つ確認する。是がまず先決である。確認しないでもただ「願う氏子におかげを授け」と仰る。そういうおかげから一歩前進してです「理解申して聞かせ」と仰る、理解を聞いて、成程と合点が行く。
 成程おかげと云う物は心次第だなと云う事が判る。そこで心の確認をまずしなければならない。そして自分で自分の心がはっきり解る。そして是ではおかげが受けられん。こう云う小さい心では大きなおかげは受けられんと云う事が解るから、大きゅうしなければおられないのであり、清める事に精進しなければおられないのである。おられないのであると言う所に、お道の信心があるのです。だから心の確認が出来てからのその後のことです。まずは一つ、心の確認を急がなければならん。
 まず心の確認をしなければ、心を研くと言うても、何処を研いて良いか分からん。分からん掴み所がない。それをはっきり掴むと云う事がです。自分の心が判ると云う事である。解ったら是ではおかげが受けられんと言う事が判る。でその心を愈々清めるという精進にもつながらない。「おかげのあるも無きも和賀心」である。その心をまず確認すると云う事が大事であります。今日は心の確認と云う事を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。